№104「歯科医療における不採算部門」根管治療の意義と重要性
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            №104「歯科医療における不採算部門」根管治療の意義と重要性
         



日本の歯科保険制度の主要部分は、一つ一つの治療行為に対し、評価点数が決められている「出来高払い制度」になっています。

 今、日本の医科保険制度では急速に包括化が進み、3割の病院に疾患群別包括医療制度(DRG/PPS)から派生したDPC(診断群分類)/PPSが導入されています。

○ DRG(診断群別分類)・PPS(診断群別包括支払い方式)DRG/PPS(Diagnosis Related Groups/Prospective Payment System)とは何か?

・ 一件当たりの定額割り支払い方式は1983年にアメリカにおいて、メディケアのパートAに、次いで6州でメディケイドにも採用されました。

・ ここでメディケア(medicare)とはアメリカとカナダの65歳以上の高齢者と障害者年金受給者及び慢性腎臓病患者を対象とした「高齢者医療保険」のことであり、メディケイド(medicaid)はアメリカとカナダの、連邦政府と州政府が共同出資する65歳以下の低所得層向けの「医療扶助」のことです。

・ メディケアは入院サービス等を保障する強制加入の病院保険(HI:Hospital Insurance,メディケア・パートA)と外来等における医師の診療等を保障する任意加入の補足的医療保険(SMI:Supplementary Medical Insurance、メディケア・パートB)と処方箋薬を負担するパートDで構成されていますが、パートAが社会保障税(税率はHI相当分で現在2.9%:被用者は事業主と折半負担、自営業者は全額負担)により、パートBは加入者の保険料(毎月の保険料は58.7ドル(2002年))及び連邦政府の一般財源により賄われています。

・ メディケアを受給するには、メディケアタックス(社会保障税)/ソーシャルセキュリティーを10年以上納めていなければなりません。受給資格に達していない人は、メディケア・パートAの加入費(223ドルまたは423ドル/月。2008年1月現在)を払うことで、メディケア のパートAに加入することが出来ます。

・ 通常、現役世代は雇用主を介して、民間医療保険に加入していますが、何の医療保険にも加入していない無保険者が4700万人に上り、うち子供が900万人(2006年)に達しています。

・ DRG/PPSは医療費の伸びや平均在院日数、病床利用率の改善を目標に導入されましたが、歯科医療にはそぐわない面があるために、アメリカにおいても歯科医療には導入されていません。

・ DRG(Diagnosis Related Groups)は人件費や材料費、在院日数のパターンが似通っている疾患をコストや臓器別にグループ化し、これをPPS(包括支払い方式)の請求単位としています。

・ 日本で採用されている「主要診断群」(MDC:Major Diagnostic Categories)は以下のとおりです。

主要疾患群
1. 神経系疾患
2. 眼科疾患
3. 耳鼻咽喉科疾患
4. 呼吸器系疾患
5. 循環器系疾患
6. 消化器系疾患・肝臓・胆道・膵臓疾患
7. 筋骨格系疾患
8. 皮膚・皮下組織の疾患
9. 乳房の疾患
10. 内分泌・栄養・代謝に関する疾患
11. 腎臓・尿路系疾患及び男性生殖器系疾患
12. 女性生殖器系疾患及び産褥期疾患・異常妊娠分娩
13. 血液・造血臓器・免役疾患の疾患4

各MDCはさらに2451分類に細分化され、2003年4月より特定機能病院82施設で試験導入され、診断群分類(DPC: diagnosis procedure combination)ごとに一日当たりの診療報酬の包括定額払いが実施されました。ただし手術料と麻酔料、指導管理料、1000点以上の処置は出来高払いになっています。

また効率的な医療を達成するためのコスト・パフォーマンスに優れた治療工程をクリニカルパスとして標準化し、医療に携わるスタッフの間の情報の共有化、患者さんへの治療の道筋の説明シート、無駄な検査や薬剤投与の排除、在院日数の削減などが行なわれるようになっています。

2008年現在、DPC導入施設は718病院、3割強に達しています。厚労省は2012年までに、1000病院に導入する計画を持っています。


・ 1997年8月に医療保険及び医療提供体制の抜本的改革の方向として発表された「21世紀の医療保険制度」(厚労省)で、患者の病態が比較的安定している慢性疾患では定額払いを導入し、急性期病床と慢性期病床を機能別に分けることを提案しました。

・ また歯科診療に対しては、補綴等歯科固有の部分が多いことや、診療所における外来診療が主体であるという実態に対応した評価体系として、

(1) 歯科固有の技術評価: 義歯装着者及び小児う蝕多発傾向者等の患者に対する長期的維持管理に着目した評価を行う。
(2) 歯科医療機関の機能に応じた評価: 病院、診療所とも外来機能を重視した出来高払いを原則とするが、根管治療等における定型的な部分は定額払いとする。
 としました。

しかし、その後の数回の改定で、根管治療の定額払いは見送られています。これは日本の歯科医療における根管治療(根の治療)の評価がもともと低いために、もし現行の点数評価のままに根管治療を包括化すれば、おそらくは歯科医療の質の低下が避けられないことが理解されたためと思われます。

歯科医療の診療評価は、実際にかかる時間や器材・薬剤・材料、技工料・人件費等から割り出されたとはとうてい思えない低額なものですが、歯科医師数を必要以上に増やし、過当競争を生むことにより、医療の最低限の質の確保を行なっている節があります。

つまり必要な医師数を低く見積もることにより、医療費の抑制を行なってきた医科とは正反対の道を歯科は歩んできたわけです。

包括医療制度の特徴は、無駄な医療行為を削減することを目標にしていますが、行なう医療行為が少なければ少ないほど利益が上がり、手間をかければかけるほど赤字になってしまう点にあります。

歯科医療は小さな外科治療の積み重ねですが、注意深く手間をかけなければ良い治療ができない分野の代表が根管治療です。根管治療とは根の治療、神経の治療とも言いますが、感染した歯髄や歯質を専用の器具で除去し、洗浄、消毒し、根の病気を治療・予防することです。

しかし歯髄(歯の内部の血管と神経)は電気のコードのように単純な形をしているわけではなく、根の尖端に近づけば近づくほど、いくつにも分岐したり、網状になったりして、非常に複雑な形をしていますし、マイクロスコープを使っても、曲がった根管の中を先端まで自由に直視できるわけではありません。

根管治療を効率化する様々な器具や方法が開発されていますが、最後は経験や手指の感触や勘や想像力に頼り、丁寧に正確に誠実に治療を進めなければうまくいきません。



根管の尖端に汚染された組織がわずかでも取り残された場合、例えいったんは症状が消えたように見えても、蛋白分解産物や細菌が免役反応を呼び起こし、加齢や歯ぎしりや循環器疾患など、何らかの原因で局所の生体防御バランスが崩れたときに、根の病気が再発することになります。

通院の手間とお金を費やして美しい冠をかぶせたのに、何年か後の夜半に急に激痛が生じ、朝まで眠れずにがまんして歯科医院に駆け込んだという経験を持つ方もいらっしゃることと思います。その原因は根の治療か歯ぎしりによる歯根破折のどちらかである場合が多いようです。

たいがいの場合、根の治療がうまく行えたかどうかは、レントゲン写真により確認されますが、レントゲン上できれいに治療されたように見えていても、実際は三次元的には不充分な治療であることはよくあることです。

その原因のひとつは、複雑な形態をした根管であるのに、内部を清掃・拡大する器具は単純な円錐形をした器具であるために、器具の届かない場所が生まれやすい点にあります。



他にも、患者さんのもつ細菌への抵抗力や免疫学的な特性には個人差があること、糖尿病などの基礎疾患により感染しやすくなったり、逆に過剰な免役反応が起りやすい場合があること、何よりも複雑な根管形態に原因があります。通常の根管治療に使う歯科材料にアレルギーを持っている人もいます。

また体質や基礎疾患、その他の不明な原因から、通常の根の治療では痛みや不快感のとれない難治性の根尖病巣もあり、レントゲンや断層撮影上まったく問題が認められないのに、いつまでも鈍痛が消えないケースもあります。

確か、J.D.Salingerの「テディ」の中に、少年が大西洋を渡る豪華客船の上から海にオレンジの皮を落す場面があったと思います。少年は海の中を深海に向けて沈んでいくオレンジの皮を想像しながら『今、ぼくが投げ込んだオレンジの皮が沈んでいく事実を世界中の誰も知らない』と感慨に耽る場面があったような気がします。
(⇒集英社版「ナインストーリ-ズ」中川敏訳226ページ「オレンジの皮があそこにあるのをぼくが知ってるってことが面白いんだ。もし僕が見なければ、オレンジの皮があそこにあるってことをぼくは知らないでいる。あそこにあるってことをぼくが知らなければ、オレンジの皮が存在しているってことすらぼくはいうことができないわけだ。」)

根管治療も、大西洋の真ん中で密かに海に投げ込まれたオレンジの皮と同様に、どこまで丁寧に行なわれたか、完全に治療が行われたかは、治療を行った歯科医師しか知ることはできません。例え上部に美しい冠がかぶせられていても、その真相は患者さんにも厚労省にも簡単には把握できない治療分野に該当します。

したがって手を抜こうと思えば、理屈の上では、治療の手間をどこまでも簡略化することもできますし、完全に行なおうとすれば回数と時間と様々な治療上の配慮が必要となります。

患者さんの立場からすれば、根の治療に何回も通院しなければならない歯科医院よりも、根の治療もそこそこに手早く済ませて、きれいな冠を入れてくれる歯科医院のほうが好ましく、場合によっては手間をかけて根管治療を行っても、「何回も通わせて儲けるために手間をかけている」と逆の評価をしてしまうかもしれません。

先日も、某東アジアから来日中の患者さんのお口に装着されているきれいな大型ブリッジを外したら、すべての歯の内部の根の治療がまったく行われておらず、唖然とした覚えがあります。この患者さんの場合、手術中にも治療費を値切るような方だったので、思い切り手抜きをされた疑いがあります。

もし不完全な根管治療を行えば、何年か先に根の病気が再発するか、歯根破折が起りやすくなるか(歯根破折の主要な原因はブラキシズム、つまり歯ぎしりですが)、むし歯が進みやすくなるか、歯が黒く変色することもあります。(歯の変色は神経が死んだ歯では一般に起りやすいのですが、蛋白質の取り残しがあると一層進行しやすくなります。)

いわば根管治療は歯科医師の専門職としての意地とプライドと良心と職業的倫理感によって、行なわれているわけで、低い治療評価と手間故に、歯科治療における不採算部門の代表格となっています。

このような状況下で、もし根管治療を包括化し、何回根の治療を行っても、どんなに手間をかけても一定の安価な評価しか得られなくなったとしたら、即座に「悪貨が良貨を駆逐する」事態が出現し、事実上保険診療内で満足な根の治療を行う歯科医院は淘汰されてしまいます。

世間にはあまり理解されていませんが、歯周病治療や根管治療など、建築で言えば地盤や基礎工事、骨組みに手間と時間をかけた歯科治療ほど、予後が良く信頼性が高くなります。明らかに根の病気があるのに、あっという間にきれいな冠やブリッジが入った場合、もしかして治療費を値切った覚えがありませんか?

参考文献:
1.「ナインストーリ-ズ」J.D.Salinger著 中川敏訳 集英社