50 ストレスコーピングと歯科疾患 |
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我国に歯磨きや洗面の習慣を広めたのは、曹洞宗(そうとうしゅう)の開祖である道元禅師だと言われています。 高祖道元禅師は、正治2年1月2日(1200年)、内大臣土御門通親(つちみかどみちちか)の嫡流に生まれ、幼くして父母を失い、13歳頃から比叡山で修行を積んだとされています。 禅師は貞応2年(1223年)に宋に渡り諸山を修行し、曹洞宗の天童如浄禅師(てんどうにょじょうぜんじ、中国浙江省の天童山に住す)より印可を受け、安貞2年(1228年)に帰国して、後に永平寺を開きました。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) 今で言えば、東大から財務省に入り、ハーバードに留学してMBAを取得したようなもので、鎌倉時代におけるエリートの一種でした。 道元禅師は、只管打座(しかんたざ)、つまりただひたすらに無心無我、無所得、無所悟に座禅することを提唱されています。無所得は健康のためとか、自分を強くするためとか、何かの利益を求めないという意味で、無所悟はさとりを得ようとしないことを意味します。 様々のストレッサーに満ち満ちているのが人生ですが、認知療法では認知の歪みを取り除き、ストレスを管理する一つの手段として「思考停止法(Thought stopping)」が用いられます。 これは「試験に失敗するのではないか?」「癌なのではないか?」「自分は生きていている価値がないのではないか?」などのネガティブな強迫観念に囚われたときに、その強迫観念に意識を極端に集中した後に、突然自分自身で「ストップ!」と強く号令し、一切の妄念を捨て去る訓練です。 道元禅師の「只管打座」にはこの思考停止法と似たところがあります。 最近、ニートと呼ばれている「引きこもり」の若者たちが、突然無関係な他人に襲いかかり、その命を奪うという理解できない事件が多発しています。 そこにあるのは恐怖や不安、未来への絶望が生み出す、制御できない凶暴な怒りの爆発と破壊衝動であり、社会に対する怨念と復讐の感情であり、他者や他の命に対する共感能力の欠如であり、幼く未熟な姿をしたエゴという怪物が煩悶し、葛藤し、のたうちまわっている姿です。 生活のプレッシャーが生み出す、怒りや焦燥感、不安、恐怖の感情や絶望あるいは罪の意識が、頭痛、不眠症と睡眠過多、うつ病、各種感情障害、難聴、背中や膝の痛み、癌や高血圧、糖尿病、虚血性心疾患、不整脈、脳梗塞、過呼吸、COPD(慢性閉塞性肺疾患)、喘息、下痢、便秘、過食症、肥満、摂食障害、リウマチ、アトピー性皮膚炎、エイズなどの症状を悪化させ、その病気を一層耐え難いものに変えることはよく知られています。 これはむし歯や歯周病、顎関節症、覚醒時のクレンチング(強い噛みしめ)、歯根破折や歯牙の咬耗、アブフラクション(歯頚部エナメル質の破損)、インレーや冠の脱落、偏咀嚼癖、歯の病的な移動と歯列弓の変形、知覚過敏症、唾液分泌障害、舌痛症、異味症(味覚障害)、誤咬などの様々な歯科疾患が、患者さんの感じているストレスの強さに左右されて、症状が重くなったり、またその病気自体の発症誘因になったりしていることと同様です。 ストレスは交感神経系を緊張させ、意識を覚醒させ、瞳孔を開き、心拍数を上げ、血圧と血糖値を上げるとともに、息を荒くし、体温を上昇させ、発汗させ、唾液や消化液の分泌を抑制し、消化器の運動も抑え、腹痛を起し、咀嚼筋や全身の骨格筋の過剰な緊張を招き、免疫力を低下させ、各種感染症にかかりやすくします。 マスコミで集中的に取り上げられたアスリート達が自意識過剰になって、風邪をひいたり、虫垂炎を起したり、腹が痛くなったりして、本番の競技会で実力を発揮できないケースを何度も見たことがありませんか。(いわゆる「褒め殺し」) また極端な過労や睡眠不足によって、内分泌系の調節を行なう脳下垂体中葉のドーパミン産生細胞が死滅することが知られています。ドーパミン産生機構が障害されると、ドーパミンは意欲や動機、学習に関係があるので、受験勉強などは効果があがらなくなってしまいます。 このように過剰なストレスは身を滅ぼす要因になり、病気の原因を取り除くのが良医であるのならば、患者さんの精神世界に洞察の触手を伸ばし、そのストレスコーピング(stress copingストレスへの対処法)を手助けすることも大切な臨床医の役目になります。 ストレスマネージメントの方法としては、様々の種類と方法があります。この色々な方法のことをコーピングレパートリーと呼び、レパートリーは多ければ多いほど、多用なストレッサーに対応しやすくなります。 その時、感じているストレッサーの種類によって、最適なコーピングを選ぶことにより、より効果的なストレスマネージメントを行ないます。 ○ストレスコーピング(stress coping)の種類 1. ストレッサーの排除またはストレッサーからの逃走: 熊に襲われたとき、手近にある石を投げつけて撃退しようとするか、ひたすら逃げ出すか、どちらも成功すればストレッサーはなくなりますが、熊に食われてしまう場合も多々あります。 2. ストレスを認識する脳の受け止め方を変えることにより(認知的評価の変容)、ストレスを軽減: 人は世界の一部を自分の見たいような姿でしか眺めていません。自分に自信がなければ、いつも敗北するイメージに囚われ、本当の実力を出すことなく敗れ去ってしまいますし、自分があるべき姿への思い込みが強すぎれば、現実の自分の姿との差異に葛藤することになります。 このような認知の歪みに気がつき、それを修正することによりストレスを軽くし、身体の反応を改善し、害を与えない方向に気持ちを切り替える方法論で、認知療法(cognitive therapy)として知られています。 ベックの認知療法 ウォルピの系統的脱感作法 マイケンバウムのストレス免疫訓練 エリスの合同情動行動療法(REBT) など。(「不安な心の癒し方 あなたの悩みを解消する7つの認知療法」ロバート・L・リーヒ著 八木由里子訳 アスペクト) 3. リラクセーション: 私たちはストレスを感じて緊張すれば、筋肉が過剰に緊張し、その緊張が続けば筋肉は疲労し痙攣を起します。ストレッサーが慢性的で強大なものであれば、心身の緊張状態(交感神経の緊張)はいつまでも続き、様々の問題を引き起こします。 多くの場合、私たちが無意識に習慣的に行なっていたストレスコーピングの方法(酒を飲む、テレビを見る、マンガを読む、食事をする、睡眠など)が無効になり、適切なリラクセーションに失敗しています。 熊に突然出会ったときに感じるストレスは急性ストレス反応で、もし人間にこのような仕組みがなかったら、緊急時に際して自分の潜在能力を一杯に発揮してストレッサーを排除することはできません。火事に際して、ふだん力仕事をしたことのないご婦人がいつのまにか重いタンスを担いで運び出していたケースがこれにあたります。 しかし慢性的なストレス状態が続くとき、身体のストレス反応は恒常的に続き、副腎が疲れ果て、様々な重大な障害を引き起こすようになります。 肩こりや頭痛、背中の痛み、腰痛、顎関節症などは持続的な筋緊張が原因になっている場合があります。慢性的なストレスがあたりまえの生活になっていると、自分自身が過剰な緊張状態にあることに気がつけなくなっているか、リラクセーションしたくても簡単にそれができなくなっています。 そこで昔から様々な心身のリラクセーションの方法が模索されてきました。「」内は参考文献。 エドモンド・ジェイコブソンの漸進的筋弛緩法 ストレッチ(「リラクセーション」成瀬悟策 講談社) シュルツの自律訓練法(「自律訓練法の実際」佐々木雄二 創元社、「自律訓練法 不安と悩みの自己コントロール」A.ミアース著 池見酉次郎/鶴見孝子訳 創元社) ヨーガや様々な瞑想法 笑うこと(「笑いの治癒力」アレン・クライン著 創元社) など。 自律訓練法などを試したことがある方は分ると思いますが、その習得はなかなかむつかしく、効果が表れるまでには年月がかかります。 最近、注目されるようになったリラクセーションの一つで、自律訓練法などが無効な患者さんにも効果があるリラクセーション法として、マインドフルネスストレス逓減法があります。 これは呼吸に意識を集中することにより、注意集中力を高め、深いリラクセーションやおだやかさとともに洞察力を獲得しようとするものです。提唱者のジョン・カバットジン(Jon Kabat-Zinn)は著書の中で、マインドフルネスストレス逓減法は道元の「只管打座」の考え方を基礎にしたものであると解説しています。 特徴は、患者さんへの説明や導入が比較的容易で、実際の臨床効果が高いことですが、毎日継続的に続ける必要があります。実際の歯科臨床への応用については、長くなってきましたので、また別稿で述べたいと思います。 最近、心の底から笑っていますか? 文部科学省は、歴史教科書の記述等で迷走する前に、カリキュラムの中に、自らの心身の健康を守る方法をもっと系統的に学ぶ機会を入れることが、今の日本にはもっとも必要なことではないかと実感するこの頃です。 「生といふは、たとへば人のふねにのれるときのごとし。このふねは、われ帆をつかひ、われかぢをとれり、われさおをさすといへども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。われふねにのりて、このふねをもふねならしむ。」道元 参考文献: 1.「マインドフルネスストレス逓減法」J・カバットジン著 春木豊訳 北大路書房 2.『道元』立松和平著 小学館 |