bU0 「私は乾く」ドライマウスに苦しむ その3 |
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年を経るということは、選択肢を失うことに他ありません。 人生の終末の地平に向かって、徐々に近づくにつれて行く手に待ち構えるものの姿が次第に露になってきますが、それを避ける術はいつのまにか失われています。 ゴルゴダの丘に佇む羊飼いの老人は羊飼いのままで死に、決してラスベガスのホテルのオーナーになることはありませんし、国家反逆罪と人民に対する罪で断罪された元大統領が、再び政界に返り咲くことは困難です。 農耕社会では、人は年老いる代わりに智恵と経験を身につけ、周囲からの尊敬を集め、共同体の中で一定のヒエラルキーを保つことができましたが、高度情報社会では事情が違います。 次々と新しい意匠が試され、捨て去られていく現代において、人々が係わる社会における役割は極めて限定された一部分であることが多く、その経験と智恵はパラダイムの変換した次の世代には何の意味も持ちません。 現代社会では労働者は、単なる使い捨ての部品に陥りやすく、その専門とする仕事の価値も喜びも醍醐味も、無関係な他人に理解されることは難しく、ごく狭い穴倉の底で個別に社会につながっているのが実態です。 仕事以外の人間関係や生きる意味を見出せないままに、リタイアした熟年者の余生は哀しく、過ぎ去ってしまった貴重な機会と時間をまったく悔やまない人は少ないものと思われます。 診療室を訪れる高齢者の口腔乾燥症の背景にも、このような現代の社会構造や家族関係が透けて見えることがあり、治療に際してはまず患者さん本人の心情的な味方になることが必要です。 症例2:数年前に診療室を訪れた70代前半のその品のよい御婦人は、見るからに息絶え絶えで、入退院を繰り返していました。(プライバシーを守るため、詳細は改変してあります。) 口腔乾燥症の別の患者さんの例 頭痛と肩こり、腰痛、食欲不振、不眠など数々の不定愁訴に苦しみ、『だるく、立つのも座るのもつらい。食欲がなく、嘔気、めまい、頭痛が続く。関節、腿、腰が痛くてしびれる。』とのことで、歯科医院にも常に忍耐強いご主人が心配そうに付き添っていらっしゃいました。 歯科医院へいらっしゃった理由は、ひとつは下顎の局部床義歯の不調であり、残っている歯の上に義歯が乗っている状態ですが、義歯の下になっている残根がひどく痛むということでした。 その他にも、お口の中がひどく乾き、唇を噛んでしまう、舌や唇が荒れる、口内炎が起こりやすい、冷たいものが歯にしみる、義歯やゆるくて浮き上がってしまうなど、色々な症状が出ていました。 既往歴としては、過去に結核の既往があり、他にもヘルニアの手術、白内障の手術、子宮筋腫の手術を受けた経験があり、一年のうち10回以上も風邪にかかり、恒常的な便秘と嚥下時の上腹部不快感があるなど、多彩な自覚症状を訴えておられました。 また2006年現在、4つの医療機関から合わせて23種類の薬が処方されている状態です。 ○症例2の患者さんに処方されているお薬の一覧 1) A内科医院から処方されている薬 @ トスペラール錠25r(塩酸ジフェニドール): (主作用)鎮暈剤 、平衡感覚にかかわる神経の働きをよくしたり、血流を改善する作用があります。 (副作用)口の渇き、食欲不振 、浮動感、不安定感、頭痛、頭重感、眠気 、目のかすみ、まぶしさ、動悸、尿が出にくい 、発疹、じん麻疹 A アデホス顆粒(アデノシン3リン酸 ) (主作用) メニエール病や内耳障害にもとづくめまい (副作用) 悪心,食欲不振,胃腸障害,便秘傾向,口内炎/全身拍動感/かゆみ,発疹/頭痛,眠け,気分が落ち着かない/耳鳴り/脱力感 B ペロリック錠(ドンペリドン) (主作用) 消化管運動改善剤 ドパミン(D2)受容体を遮断 (副作用) 腹痛や下痢、めまい感や眠気 、錐体外路症状 C ガナトン錠(塩酸イトプリド ) (主作用) 消化管運動賦活剤 (副作用) 腹痛や下痢 D パングリーンP(塩酸ピペタナート + 甘草 ) (主作用) 胃液の分泌を抑え、内臓のけいれんを抑える 。胃・十二指腸潰瘍、胃炎の治療薬 (副作用) 口やのどの渇き、便秘または下痢、眼の調節障害など。ときに低カリウム血症、血圧上昇、むくみ、脱力、筋力低下、筋肉痛 。 E レベルボン錠(塩酸ブロムヘキシン ) (主作用) 気道粘液溶解剤 (副作用) 痰がうすまり一時的にその量が増える。 F 桂枝茯苓丸 (桂枝、芍薬、桃仁、ぶくりょう、 牡丹皮 ) (主作用) 更年期障害、自律神経失調症の薬 (副作用) 胃の不快感、食欲不振、吐き気、吐く、下痢 発疹、発赤、かゆみ 、肝機能値の異常 G フルトリア錠(トリクロルメチアジド錠 ) (主作用) 利尿降圧剤 (副作用) だるい、めまい、低カリウム血症(だるい、筋力低下、動悸、便秘) 、血糖値の上昇、尿酸値の上昇 Hスカルナーゼ錠1r(ロフラゼプ酸エチル ) (主作用) ベンゾジアゼピン系催眠鎮静剤,抗不安剤 (副作用) 眠気、ふらつき、けん怠感、脱力感 2) B病院から処方されている薬 @酸化マグネシウム 制酸剤、下剤 Aプルゼニド錠12r センナ 植物性緩下剤 効きめが悪くなってきたからと、安易に増量を繰り返していると、体が下剤に頼りがちになり自然な排便が困難になってしまいます。さらに血液中のカリウム分が減少すると、排便の力がますます弱ってきます(下剤性結腸症候群)。 3) C耳鼻咽喉科から処方されている薬 @半夏白朮天麻湯(半夏、白朮、茯苓、沢瀉、天麻、 人参、黄耆、 乾姜、陳皮、黄柏、 麦芽、 生姜) (主作用) めまいの症状を中心に、頭痛や頭重感、吐き気や嘔吐、手足の冷えなどをともなうときに用いる。 (副作用) 胃の不快感、食欲不振、軽い吐き気、発疹、発赤、かゆみ A麻黄附子細辛湯(麻黄(マオウ) 、附子(ブシ) 、細辛(サイシン)) (主作用) 発汗作用。体の熱や腫れ、あるいは痛みを発散。体をあたため痛みをやわらげる。 (副作用) 胃の不快感、食欲不振、吐き気、吐く、動悸、不眠、発汗過多、尿が出にくい、イライラ感、のぼせ、舌のしびれ、発疹、発赤、かゆみ Bエボザックカプセル30r(塩酸セビメリン水和物) (主作用) シェーグレン症候群の口腔の乾燥を改善する働き (副作用) めまい,振戦,不眠,うつ病.嘔気,腹痛.下痢,嘔吐,食欲不振,唾液腺痛,唾液腺腫 Cプロマック顆粒15%(ポラプレジンク) (主作用)亜鉛含有胃潰瘍治療剤 (副作用)便秘 Dシングレア錠(モンテルカスト、ロイコトリエン受容体拮抗剤 ) (主作用)抗アレルギー剤、喘息を抑える。 (副作用)吐き気や腹痛、胸やけ、下痢 4) D病院精神科から処方されている薬 @セパゾン錠2 Aデジレル錠25 Bデパス錠 Cセルシン錠2r Dアキネトン錠1r Eピーゼットシー散1% Fアキネトン細粒 不謹慎ですが、はたして毎日、こんなにたくさんのお薬を飲んでいても命に別状がないのか、意外と人間は丈夫にできているのだなという感想を最初に持ちました。 抗ヒスタミン薬、鎮痛剤、乗り物酔いの薬、咳止め薬、風邪薬や胃腸薬の一部など、「抗コリン作用薬」と呼ばれる一連のありふれた薬の副作用として、唾液の分泌低下があります。 ふつう一種類や二種類の「抗コリン作用薬」を飲んでも、めだった口腔乾燥症状は現れないのですが、6〜7種類以上、お薬を飲み合わせる場合に、副作用としての口渇が著しく強く発現するようになります。 制吐剤、鎮痙薬、気管支拡張薬、抗不整脈薬、抗ヒスタミン剤、鎮痛剤、降圧薬、パーキンソン病治療薬、コルチコステロイド、骨格筋弛緩剤、潰瘍治療薬、向精神薬など、一般に処方されている多くの薬剤が抗コリン作用を持ちます。 抗コリン作用(※1)は海馬の働きを低下させ、高齢者が軽度の認知障害を引き起こす原因になると言われていますが、ドライマウスの原因にもなっている場合があります。 この患者さんの場合、実際にはお医者さんから毎月、貰っているにもかかわらず、飲んでいない薬もあったため、四つの医療機関のそれぞれにお手紙で相談にのっていただき、お薬の数と種類を医療機関の間で統合・減薬していただきました。 どの担当医の先生も、歯科からのお願いに対して快く対応してくれました。 患者さんの言動から、不定愁訴の背景には、お嫁さんとの家族関係の軋轢が強く疑われましたので、ご主人や息子さんが治療に来るたびに、少しずつお話するようにして、患者さんが家庭内で孤立しないように、お孫さんと触れ合う時間を安定してもてるようにお願いしました。 唾液腺マッサージ等のセルフケアも熱心に行なっていただいた結果、各担当医のご指導もあって、幸い、その後患者さんの口腔乾燥症状は徐々に改善し、それにつれて様々あった不定愁訴も、残ってはいるのですが、あまり気にしなくなったようです。 最近、趣味の手芸を十何年ぶりに再開されたと嬉しそうに話しておられたのが印象に残っています。 高齢者の多く見られるお薬の飲み合わせによる口渇症状も、単一の原因で起こっていることはめったになく、糖尿病の進行やストレスなど複合要因により発症している場合がほとんどです。 いずれの場合も、歯科診療室が患者さんを救う最後の機会になる場合があり、私たち臨床歯科医は心して診療に臨まなければならないと痛感しました。 ※ 1抗コリン作用:アセチルコリンを神経伝達物質とする神経のことをコリン作動性神経と呼びます。末梢神経にはアセチルコリンを受け取る側の受容体の種類の違いから次の3種類のコリン作動性神経が存在します。 @ 運動神経 ニコチンM受容体 A 自律神経節前線維 ニコチンN受容体 B 副交感神経節後線維 ムスカリン受容体 コリン作動性神経が興奮すると、消化管は収縮して蠕動運動を起こし、気管や胆嚢、子宮の筋肉は収縮し、逆に膀胱括約筋は弛緩します。唾液腺、涙腺、汗腺、膵液、胃液などの外分泌腺の腺分泌は亢進し、瞳孔は縮まります。 代表的なコリン作動薬はアセチルコリンとニコチンです。 抗コリン作用薬はこのようなコリン作動性神経の働きを抑制するために、唾液が出なくなり、口の中が乾いてしまいます。 参考文献:「今日の治療薬」水島裕著 南江堂他 |