bU9 「The Blind Men and the Elephant」 顎関節症その1 |
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上図(Blind monks examining an elephant From Wikipedia, the free encyclopedia) 一昨年でしたか、人気タレントの「あやや」こと、松浦 亜弥さんが、顎関節症のためにコンサートを中止されたというニュースがありました。幸い適切な治療を受けられ、短期間で回復されたようですが、一般に女性で顎の小さい小顔の方は顎関節症になりやすい傾向を持っているものと思われます。 「顎関節症」の症状としては、口を開けると顎の関節がカクン、コキンと鳴る、ジャリジャリと音がする、顎を動かしたり噛みしめたりすると、耳の前や側頭部、首筋等に鈍い痛みが出る、口を開けられない、あるいは開口すると下顎がどちらかにずれることなどが主な症状ですが、他にも頭痛、耳鳴、首や肩のこり、難聴、めまい、舌痛、咬み合わせの不安定感(しっくりこない感じ)、手足のしびれ感、自律神経症状などが表れることがあります。 下顎の運動制限や顎関節雑音以外は、患者さんが主観的に訴える症状であることが特徴になっています。 近年、「顎関節症」についてはマスコミで取り上げられる機会が増え、社会的にもよく認知された病気になっていますが、その本質や治療法については完全に解明されたとは言えません。 顎関節症類似疾患についての報告は、1918年の解剖学者プレンティス(PRENTISS)の「臼歯部の複数の抜歯により下顎骨が筋肉により上方へ牽引され、関節円板に過大な力が加わり円板の萎縮や穿孔が起こる」という知見くらいからですが、以来、90年間その疾病メカニズムと制御モデルについて様々な仮説が出現しています。 1932年Goodfriend DJは「顎関節顆頭が正常よりも後方または前方に変位している人々の間で難聴,耳鳴り,めまい,関節雑音等が発生する」ことを見出し、バイトプレートまたは義歯を装着し、「顎関節症の治療法は上下顎の位置関係つまり顎関節窩と顆頭の関係を正常に再構成することにある。」としました。(以上「顎関節症小史」http://www.bgn.co.jp/TMD/Short%20Histry%20of%20TMD.pdf:永田和弘氏=全調節性咬合器、BGN咬合器の開発者)より引用改変。以下※Aと略す。) その後、1934年にアメリカの耳鼻科医であるJames Bray Costenは「顎関節部の痛み、難聴、耳の詰まる感じ(耳管狭窄感)、耳の痛み、めまい、のどの痛み、舌・鼻の灼熱感を特徴とする」症候群を報告し、咬み合わせの不調和により、下顎骨の突起(下顎頭)が後上方へ移動し、耳介側頭神経や鼓索神経を圧迫することによりこれらの症状が現れると説明しました。(Costen syndromeコステン症候群、機械的刺激圧迫説) 後に解剖学的にこのような発症メカニズムは否定されましたが、今日の顎関節症に該当する疾患と思われます。 つまり顎関節症の病因は当初、主に咬み合わせに原因が求められましたが、その後、筋肉の過剰緊張に原因を求める学説が登場してきます。 1955 年 SCHWARTZ は疾病の原因は顎関節にあるのではなく心理的, 肉体的繋張が引き起こす筋緊張に依って疼痛を発するという仮説を立てました。( TMJ PAIN DYSFUNCTION SYNDROME〈PDS〉)。(上記センテンス※Aより引用改変。) 1969 年LASKIN は筋緊張の原因を咬み合わせでなく、心理的なストレスが原因であり、咬合異常は筋緊張の結果生じていると説明しました。つまりこの時点で顎関節症(顎機能障害)は歯科領域から心療内科の領域に編入されたのでした。(MPD症候群:myofascial pain dysfunction syndrome) 圧倒的に優勢だと思われた理論モデルも、医学の進歩や時代背景(訴訟対策など)により、いつの間にかタブラ・ラサされ(Tabula Rasa:拭われた石板。獲得された観念を捨て白紙に戻すこと)、また別の学説が勢いを増すパターンを繰り返してきました。2008年現在は単一の原因ではなく、いくつかの要因が組み合わさって全体としてある閾値(生体の適応力の限界)を越えたときに、顎関節症が発症するという考え方が優勢になっています。 極端なことを言えば、顎関節症について話し合うとき、本当に同じ病気について話し合っているのか、これは病因も病態も異なる別々の疾患を誤って同じ範疇に入れて取り扱っているのではないかと疑問に思うことがあります。 あたかも顎関節症のメカニズムを考える歴史は「群盲評象」の様相を示してきたといえば、言いすぎでしょうか。 「顎関節症」(顎機能障害Temporomandibular Disorders (TMD))は咀嚼筋と顎関節、付属する諸器官に関係する多くの臨床的な問題を含めた広い意味を持つ病気の名称です。 国際頭痛学会(International Headache Society : IHS)の分類によればTMDは顎顔面痛(オロフェイシャルペインorofacial region)の一部であり、筋-骨格性疼痛に分類され、その筋-骨格性疼痛は頭痛の一部として分類されています。 つまりICHD−U分類表(国際頭痛分類第2版)では、 ○第2部 二次性頭痛(二次性頭痛:くも膜下出血や脳腫瘍など何か他の原因があって、二次的に生じる頭痛) ⇒11.頭蓋骨、頚、眼、耳、鼻、副鼻腔、歯、口あるいはその他の顔面・頭蓋の構成組織の障害に起因する頭痛あるいは顔面痛 ⇒11.7顎関節症による頭痛または顔面痛 に分類されています。 一方、日本の顎関節症学会の分類は、アメリカの分類と多少異なります。(2001年改定版) T型:咀嚼筋障害:咀嚼筋が痙攣・炎症を起すことによる痛みです。顎を動かすときに痛みが出てうまく動かせません。(⇒MPD症候群に相当します。) U型:関節包・靭帯障害:顎関節の構成部品である関節包、関節靭帯、関節円盤が伸びてしまうか、捻挫を起したもの。顎を動かすと耳の前が傷み、耳の前を押さえると痛みます。下顎をうまく動かせず、顎関節の雑音が出たり、噛む筋肉の痛みが出ることがあります。 V型:関節円板障害:関節円板が脱臼したり、円板に穴があいたりします。線維軟骨組織である円板が繊維化することもあります。(関節円板はコラーゲン線維とその線維の隙間を満たすプロテオグリカンからできています。プロテオグリカンは蛋白質と糖鎖からなる軟骨の主成分。) 咀嚼筋の痛みは少なく、顎関節部の圧痛も軽度です。本来、下顎頭を覆っていなければならない関節円板が、下顎頭から外れた状態で、開口時に再び下顎頭を覆う状態に戻るものと戻らないものに分けられます。(⇒顎関節内障=関節円板のズレにより起こるもの) a:復位を伴うもの:関節円板が復位するときにコキン、カクンという関節雑音が生じます。 b:復位を伴わないもの:下顎頭から関節円板が脱臼したままになり、口をうまく開けられなくなります。陳旧化すると円板が外れたままで口が開くようになります。 W型:変形性関節症:関節そのものの破壊と適応が起こっています。(関節軟骨の破壊、下顎窩・下顎頭の骨吸収や変形、骨添加、関節円板や滑膜の変形)クレピタスと呼ばれる関節雑音(ジャリジャリ音や捻髪音)が認められ、レントゲン写真でも変形が認められます。 X型:T型〜W型に該当しないもの。心身医学的原因で顎関節部の症状が表れているもの。 通常、V型とX型の合併というように、単一の分類項目に属さない場合が多く認められます。 例え理論が実証されなくても、私たちは実際に歯科診療室を訪れるたくさんの患者さんに対して、何らかの治療を行い、その症状を取り除かなければなりません。 日本の保険診療のガイダンスでは、咬み合わせの調整、スプリント療法、マイオモニター(高周波による咀嚼筋のマッサージ)、筋弛緩剤や鎮痛剤などの薬物療法、生活習慣指導が主な治療の選択肢になっており、実際には咬み合わせと筋緊張に対する治療が主体になっています。心療内科的アプローチは歯科領域では端緒についたところと言えるのではないでしょうか。 顎関節症はself-limitedな疾患と言われ、まったく治療を行わなくても、一定の時間が経過すれば、自然に症状が落ち着き、治まる性質を持っています。このこともエビデンスのある治療法が確定しにくい理由になっていると思われます。 現在の治療方針の背景になっている多因子説は、総合的なストレスが頭蓋と下顎骨及び姿勢を支える一群の神経筋システムに集積し、生体の持つ適応力を超えたときに発症し、時間が経過すれば、徐々に生体がシステムに発生したゆがみを色々な形で吸収して、再適応し、次の枠組みのステージに移行するために症状が消退しているものと考えられます。 さて縄文時代まで人類の平均余命は12歳〜15歳くらいであったと推定されています。 インターネットや核融合、iPS細胞 (induced pluripotent stem cells、人工多能性幹細胞)や第7世代コンピューターなど、神の領域まで侵そうとする人類ですが、生物系統学的にはついこの間まで、海岸の泥濘を這いずりまわっていたわけです。 見方を変えれば、当初、神様の設計したヒトの身体の設計寿命はせいぜい18歳くらいのものであったかもしれません。現在の人類は文明という名の果実を食した罪で、エデンの園を放逐された時から、神様の設計寿命をはるかに超えて生きてしまっているわけです。予想外に長生きをしているために色々な問題が生じているとも言うことができます。 成長・発育が終了した後、ヒトは途切れることなく老化・損耗のステージに突入するわけですが、歯の咬耗・欠損や歯科治療、不正咬合、悪習癖、負荷のかかる姿勢、ブラキシズム、骨格や咀嚼筋の予備力の不足、高度情報化格差社会のもたらすハイパーストレスなどが人間というシステム系全体に強烈な負荷を加えるようになっています。 そのとき神様の設計した身体システムの枠組みが心身のひずみに対応できなくなっていきます。 あまり知られていないことですが、交通外傷などで起こる鞭打ち症や下顎骨への強い外力(強烈なアッパーカットなど)、尻餅なども、顎関節症が起こるきっかけになることがあります。 時間の経過とともに組織や器官がダメージを受けて損耗し、システムの生理学的あるいは機能的なバランスが崩れ、顎関節症の様々な随伴症状が生じているものと私は考えています。(妄想かもしれませんが) そして生きている限り機能する生体の修復・適応力によりいったん崩壊したシステム系が人体に加わるストレッサーに再適応するまでの間に、様々の自覚症状が患者さんを苦しめているものと考えています。 つまり私達の行なっている顎関節症の治療は、ヒトというシステム系がひとつのステージから、ストレッサーに対応すべく次のステージに移行するまでの不適応期間に生じる苦痛を取り除き、咬合・姿勢システム転換のソフトランディングを助けているだけかもしれません。 以上の病態モデルは、「局所適応症候群(LAS :Local Adaptation Syndrome)」と呼ばれるストレスに対する通常の生体反応で説明することができます。 咬み合わせの不調や顎関節への強い圧力、精神的な緊張、打撲による外傷などのストレスが頭蓋―顎―咀嚼筋―姿勢制御筋群―神経筋機構―脳、に加わったとき、私達の身体は 自分の身を守るために、ストレッサーに満ちた外部環境に適応しようと努力します。 その過程は@警告反応期(有害なストレスに対する警告が発せられ、ストレスに抵抗するための心身の準備が急いで準備されます。)⇒A抵抗期(ストレッサーとストレスに対抗する心身の働きがつりあっている時期です。)⇒B疲弊期(過剰なストレスに心身が疲れ果て、生体機能の低下や不適応が起こります。) 多因子疾患としての顎関節症は、咬み合わせ、顎運動のシステムと両者を統合管理する脳神経システムに加えられたストレスに、システムが適応しきれなくなったときに、症状が発現しているものと思われます。 時が経過し、加えられたストレスが強要する枠組みに顎関節や咬合が、自らが破壊・吸収・変形・偏位することにより再び適応することに成功すると、症状が自然に消退するのではないのでしょうか? 次の世代の歯科医療者に期待することは、より洗練された適応モデルを数値化し、客観的に実証し、より本質的で確かな診断プロセスと治療スキームを確立していただくことです。 いつの間にか、私も次世代に遺言を残す立場になりましたが、人間の奥深さ、医学や真理の広大普遍さには益々圧倒され、未知の海原の広さや、解決しなければならない課題が山積していることは、ある意味幸せなことであると実感するこの頃です。 参考文献: 1.「顎関節症小史」 http://www.bgn.co.jp/TMD/Short%20Histry%20of%20TMD.pdf:永田和弘氏 2.「最新顎関節症治療の実際」グレッグ・ゴダード著 井川雅子著 和島浩一著 チャールズ・マックニール監修 クインテッセンス出版株式会社 |