bV9「安富和子氏に学ぶ」学校歯科保健の最前線
本文へジャンプ 6月1日 
 

 
(↑参考文献1「そしゃく計測装置の開発と食育活動への活用」より引用)

 2008年5月現在、下伊那郡喬木第二小学校養護教諭を務められている安富和子先生は学力の前に身体の健康と基本的な生活習慣の確立が重要であるとの信念のもとに、「体、徳、知」をモットーに保健活動に取り組まれていらっしゃいます。

 現学校が6校目となる安富氏は、前任校の赤穂南小学校に赴任されている折、「カミカミマシーン」という咀嚼回数を測定する器機を開発され、学校歯科医の先生(横田先生、菅沼先生)との協力のもとに、目覚しい歯科保健の成果を挙げられた結果、赤穂南小学校は2006年度、県内で初めて第45回全日本学校歯科保健優良校表彰(日本学校歯科医会、日本学校保健会主催)で最優秀校に認定され、文部科学大臣賞に輝きました。

 安富和子先生は、児童が給食を食べる様子を観察するうち、よく噛めないで飲み込んでしまう児童やうまく噛めない子がいることに気がつきました。

 学校歯科医の先生からの給食が「咬み応えがない」との指摘もあり、試行錯誤の結果、顎に装着して噛む回数をカウントする器械を3000円くらいの材料費で作製することに成功されました。

 咀嚼回数計測装置の開発は、赤穂南小学校から1kmにある長野県駒ヶ根工業高等学校の高田直人氏の協力のもとに進められたそうです。

 歯科保健の重要性を日頃説いている私達歯科医ができなかった発想であり、商品化されれば児童の食育指導ばかりでなく、成人の食生活を、噛む回数から再評価することも可能になり、肥満防止や脳機能の活性化に役立てることと思われます。

 NPO法人「健康情報推進機構」の理事長である斎藤滋氏は、弥生時代、平安時代、鎌倉時代、江戸時代(初期、後期)、戦前、現代の食事を再現し、20代の学生たちに食べてもらい、咀嚼回数と食事時間を測定しました。

その結果、現代人の1回の食事の咀嚼回数は弥生時代の6分の1以下であり、食事時間も5分の1になっているそうです。

戦前と現代だけを比べても、咀嚼回数が1420回から620回に、食事時間も22分から11分にと、100年足らずの間に2分の1以下に激減しているとしています。
(「よく噛んで食べる――忘れられた究極の健康法」(NHK出版生活人新書)より引用)」

一方、狩猟生活を送っていた縄文時代人の平均余命は30〜35歳程度とされています。弥生時代人や古墳時代の平均寿命もほとんど変わらなかったと言います。現代人の平均寿命は80歳前後ですが、平均寿命の延びは乳幼児死亡率を改善できる社会環境が整うまでは大きく伸びませんでした。

明治以降、周産期医療の進歩とともに平均寿命は伸びてきましたが、軟らかく加工調理された食品を食べることは、消化器系への負担を減らし、かえって健康寿命を延ばすことにつながるのではないかとのご指摘も当然あるものと思われます。

しかし、ラットの実験では、粉末食で飼育したラットより固形食で飼育したラットのほうが、平均寿命が有意に長くなるという研究結果が報告されています。

平均寿命は栄養や睡眠、生活習慣はもとより、民族的特性及び社会のインフラストラクチャー、すなわち病院や上下水道、衛生教育、労働条件、社会制度、戦争や紛争の有無などの影響を受けるため、純粋に咀嚼回数や食べ物の固さのファクターが、人間の寿命にどのような影響を与えているか、証明することは困難であると思われます。

 軟らかい食事をほとんど噛まずに飲み込むことと、噛みごたえのある食材を、時間をかけて咀嚼してから飲み込むこととどちらが健康に良いのか?

 歯科医師の立場から言えば、もちろんよく噛んでから飲み込むほうが望ましいと言いたいわけですが、それほど単純な話ではありません。

 つまりよく噛むことに耐えられる顎と筋肉と歯を順調に発育させた健康なメンタルヘルスを持っている人にとっては、良く噛むことは脳機能を活性化し、唾液分泌を促し、咀嚼・嚥下機能を健全に保ち、顎骨や咀嚼筋を健康に保ちます。

 特に成長発育期に、極端なソフトフード中心で育てられた子供は、歯垢が溜まりやすいためにむし歯が増え、歯肉炎にもなりやすく、咀嚼筋や顎関節の耐性・予備力が弱くなり顎関節症を起しやすくなる可能性や不正咬合も増えるという考え方が一般に認められています。

 文部科学省や農水省が推進する食育教育は、食事や睡眠などの基本的な生活習慣形成が、小児うつ病の予防などメンタルヘルスの維持に役立つだけでなく、学習意欲や、学習効率向上に効果的であるという期待のもとに行なわれています。

 確かに、規則正しい食事・睡眠の習慣、よい食べ方、適切な食材を選ぶ能力などを教育することは、一生にわたり本人の心身の健康を守るために、重要な意義があるものと思われます。

 ただし注意しなければならないのは、主に成人の場合、個人の適応力を超えた咀嚼回数・咀嚼力を強制してしまうと、予想外の結果を生む場合があることです。
 
ストレスフルな現代においては、私たちは強いストレス下で生きることを余儀なくされています。実際、顎関節雑音や開口障害、強度のブラキシズムを主訴に診療室を訪れる患者さんは後を絶ちません。その中には小学生が混じることがあります。

精神的な要因と顎関節及び咀嚼筋へ持続的に加えられる力、歯ぎしりと噛みしめなどブラキシズムと呼ばれる習癖、偏咀嚼、猫背、長時間強制される姿勢などが、「顎関節症」の原因になります。

多因子疾患である顎関節症の症状を改善させる第一のポイントは、やわらかい食事を選び、チューインガムやスルメ、固い生野菜や肉などを避けることであり、強く噛みしめないことです。

発育期の食事指導は、本人の耐性に合わせた噛む回数や食事内容の指導を無理なく行なうとともに、食事や学習の際の姿勢の注意、偏咀嚼の防止、頬杖の禁止、猫背の改善、うつぶせ寝の回避、ストレスコーピングの方法、漸進的筋弛緩法などを組み合わせて指導すると一層効果的かつ安全に行なえるものと思います。

自分で自分自身を守る科学的な方法論を、学童期に教育することの意義は、本人にとって一生に渡る贈り物になるだけでなく、社会全体にとっても、将来の巨大な医療負担及び社会負担を避ける意義があります。(アメリカではブラキシズムの予防のために年間、10億ドル以上をスプリントに費やしています。)

自分の歯を20本以上持っていてよく噛める顎を持っている高齢者と、噛む能力を失った高齢者では、生活の質がまったく異なるだけでなく、歯のない方では咀嚼筋に牽引されなくなった頭蓋骨の重量が急速に減少し、脳機能も減退し、認知症にかかりやすくなることが分っています。

顎関節症の発症に注意しながら、適切な食事習慣を形成する食育教育は私たち歯科医師が積極的に関わるべき分野ですが、安富氏のように咀嚼能力に注目し積極的に食育教育を行なっていただける教育関係者の方々の行動力には敬服します。

意欲的に歯科保健に係わる教育関係者の方々に学びながら、より効果的に地域歯科保健に貢献することができれば、「地域に戻れ」をモットーにしている長野県歯科医師会としましてはこれ以上の幸せはありません。

少子化の進む日本において、一人一人の子供が健全に育ってくれる価値は言うまでもなく高く、日本の将来がかかっていると言っても過言ではありません。

私たち歯科医療関係者も歯科医療の立場から、学校と連携して子供たちの健全な発育を助け、将来に亘る口腔保健の知識を啓蒙することの意義をあらためて感じます。

参考文献:
1.長野県学校科学教育奨励基金 2006(平成19)年度結果報告「そしゃく計測装置の開発と食育活動への活用」長野県駒ヶ根工業高校教諭高田直人/駒ヶ根市立赤穂南小学校養護教諭安富和子(※ 研究責任者は高田直人)http://sbc21.co.jp/enterprises/shorei/2006/26.pdf
2.「TMDを知る-最新顎関節症治療の実際-」Charles McNeill監修 Greg Goddard、和嶋浩一、井川雅子著